【街道歩き】成田道を歩く①(我孫子~湖北)

「成田道」とは、かつての我孫子から布佐、木下、安食を経由して成田まで続く道のことである。木下から安食までは銚子佐原街道、安食から成田までは安食街道・松崎街道とも呼ばれる。今のルートだと国道365号線が成田道に当たる。
江戸時代初期、水戸道(=水戸街道)は、我孫子から東我孫子、湖北、布佐、利根川を渡り布川と進み水戸へ向かう道であった。天和二年(1682年)ころより、水戸道は我孫子の追分から北へ進み、柴崎から青山の渡しを経て取手へ進むルートへ変更なり、かつて水戸道と呼ばれていた道は成田道と呼ばれるようになり、我孫子追分が起点となる。
ちなみに、元禄四年(1691年)の道標を調査したところ、水戸道は『水戸海道』と、成田道は『布川海道』と呼ばれていたことが確認できる。

我孫子~追分

我孫子駅南口からスタートする。我孫子は『北の鎌倉』とも呼ばれ、ゆかりの文化人が数多く居を構えていました。大正時代には、手賀沼の湖畔に白樺派の志賀直哉、柳宗悦、武者小路実篤が邸宅を構え家族ぐるみで暮らしていた。
駅前ロータリーを南進、最初の信号の角に八坂神社が鎮座しています。八坂神社は旧我孫子宿の入口に鎮座し、応永三年(1396)に、京都の八坂神社から勧請され創建された。

信号を左折し旧我孫子宿へ進む。しばらく進むと路傍に鋳鉄製の滑車が付いた古井戸がある。

さらに進むと再び井戸があった。この井戸の上屋はまだ新しく見える。説明板によると、明治17年、女化原の近衛兵大演習統監のため訪れた明治天皇御飲料井戸であるという。

明治天皇御飲料井戸の斜向かいには老舗の割烹旅館「角松本店」がある。
旧水戸街道の宿場町として発展した我孫子。その名残を感じさせる老舗の割烹旅館です。江戸時代には「松島楼」と呼ばれた旅籠で、近衛兵大演習統監のため訪れた明治天皇の行在所にもなった老舗です。度々食事に来ていた嘉納治五郎から送られた書や、自由民権運動の父・板垣退助がこの宿で演説会を行った際の看板などが今も残っている。

明治天皇の御飲料井戸から30メートルほど進み、右に折れると我孫子香取神社が鎮座している。我孫子宿の鎮守として地域の人々はもちろん、街道を通る旅人たちの崇敬を受けてきた。平成27年4月より地元の鎮守を見直そうということから、ボランティアグループ オキクルミによる朝市「香取さまで会いましょう」が4月~7月、9月~12月の第一土曜日に開催されている。

しばらく道沿いを進むと、子の神道標・従是子神道の石碑が見えてくる。寛政元(1789)年建立で子の神大黒天の参道「子の神道」の分岐点を示す石碑です。

さらに進むと、我孫子宿本陣跡の碑が突然現れる。本陣があった敷地にはマンションが建っており、当時の面影は全くない。

創業明治12年、今から140年以上も前に宿場としてスタートした、我孫子の老舗料亭の『鈴木屋』が見えてくる。1960年代頃、作家の三島由紀夫が泊まったことがあるという、我孫子でも最も格式ある老舗料亭ですが、コロナ渦の影響もあり、残念ながら2022年8月25日(木)をもって閉店した。さて、この建物は今後どうなるのでしょう?

『鈴木屋』からしばらく歩くと、水戸街道と成田街道の分岐となる、我孫子追分に着く。左に曲がるルートが水戸街道。まっすぐ進むルートが成田街道(=成田道)である。

追分~東我孫子一里塚

我孫子追分の分岐はY字路の三角地帯になっており、いくつもの道標や道祖神などが集められている。江戸時代初期までは、この追分は存在せず、水戸街道は布佐~布川~竜ケ崎を経由して水戸へ向かうルートでした。1682年以降、水戸街道のルートが変更となり、ここ追分から北東に進み柴崎~青山~取手を経由することとなった。ということは「右 成田道」という石碑は1682年以降にできたものなのだろうと推測できる。

追分からしばらく進むと、四国相馬霊場38番札所と43番札所「子の神大黒天延寿院」の看板が見える。子の神大黒天は、ネズミを使徒とする大黒天を祀っている。伝説によると源頼朝が脚気にかかると夢に白ネズミに乗った翁が現れ、柊で足を祓うと治ったといわれている。腰下の疾患に霊験ありといわれ遠近より参詣者で賑わったといわれている。元々、我孫子宿の街道沿いにあったが、大正7年に現在地に移建された。

成田山へ向かう街道沿いだけあって、所々にお寺があります。

我孫子一中の先の三差路。右に曲がると、手賀沼へ抜けます。住宅街を抜ける道ですが古地図にもある道のようです。

天王台駅入口交差点をぬけると国道356号線はJR成田線を越えるため左にカーブし跨線橋となります。当時の成田道は直進ですのでその通り進もうとしますが、住宅街となり道跡はなくなっています。駐車場と住宅の間に旧道跡らしきものがありますが果たして。。。

住宅街を抜け再び、成田道へ。右手先に見えるのが、東我孫子一里塚です。

東我孫子一里塚に到着。この一里塚は、水戸街道が取手ルートに代わる前、初期の水戸街道の一里塚として設置されたもの。一里塚は、慶長9年(1604年)、徳川家康が日本橋を起点として各街道に一里毎に道の両側に塚を設置させ、旅の目安と共に度量衡の統一を図ったものと考えられている。我孫子市内にはここと中峠、布佐の3箇所にある。

東我孫子一里塚~湖北

東我孫子一里塚を出発し、再び成田道を進む。

成田道は東我孫子駅で途切れているため、少し先の踏切を渡ることにする。

踏切をわたり、右折し道なりに進むと右折する道がある。ここが成田道と思われる。念のため「歴史的農業環境閲覧システム」で確認するが、たぶん合っていそうだ。

左が成田道、ここで国道365号線と合流。しばらく365号線沿いを進むことになる。

我孫子第二小学校から下り坂となり、湖北台団地入口交差点を抜けると上りなる。

街道沿いには立派な門構えの家がたくさんあり、当時の豪農の面影、裕福さが感じ取れる。

享保17年に建てられたと思われる青面金剛尊?

さらに進むと、おしゃれな建物が見えてくる。コッコパンというパン屋。松戸の名店「Zopp」で修業したオーナーが湖北に開業したパン屋です。以前、お昼過ぎに買いに来たことがありますが、すでに売る切れ寸前。地元でも人気のパン屋さんです。あいにく本日(月曜日)はお休みのようです。

コッコパンの斜向かいにあるに法照院に隣接して「中峠阿弥陀堂」が見えてくる。現在は墓地となっている。何かいわれが書いてあるが、読めません。。。

さらに進むと、右に曲がる小道がある。この小道を直進すると「伊勢山天照神社」が鎮座している。古地図では「神明宮」とあるが、そもそも天照大神を祀る神社は、かつて「神明宮」と呼ばれることが多かったので、古地図の記載もその名残なのだろう。

元に戻り、歩を進めると「湖北駅」という表示板が見える。本日のゴールはもう少し。

湖北駅北口の交差点を右折し、200メートルほど進むと本日のゴール湖北駅に到着。お疲れさまでした。

街道歩きログ

2023年3月19日(日)
ルート:我孫子~東我孫子~湖北
走行距離:6.3km
所要時間:2時間5分
街道歩きの初日としては、ちょうどよい距離、時間だったような気がします。

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

TOP