【街道歩き】成田道を歩く②(湖北~木下)

成田道歩き2日目、前日のゴール湖北駅からスタート。天気が非常によく、街道歩きにはちょうど良い気候だ。

湖北~新木

湖北駅を9:30に出発。本日は木下を目的地とする。約3時間程度の道のりとなろうか。
駅前ロータリーを北進し、湖北駅入口の交差点を右折。国道356号線を木下に向かて進む。

しばらくすると左手に龍泉寺が見えてくる。弘法大師が関東巡錫の折に中里字東原に創建したと伝えられ、平将門の乱の折に罹災したものの、大徳良仁法印が再建といいます。現在の山門は、谷中観智院旧在の大正年代建立の門を移建したもの。新四国相馬霊場八十八ヶ所76番です。

「中峠宿通」に反応してしまいました。しかし、「中峠宿」というのは存在していなかったはず。果たして。。。
ちなみに「中峠」は「なかびょう」と読みます。

湖北一里塚跡です。祠の後ろに見える「塚」がしっかり残っています。東我孫子一里塚も「塚」が残っていましたが、このように「塚」として残っているのは非常に稀なようです。

再び歩を進める。しばらくすると右手に「日秀観音」が見えてくる。日秀観音は、平將門の守り本尊と伝えられ地元の方々の信仰篤い観音菩薩で、「下総国相馬郡日出村観世音菩薩縁起」によれば行基の作と記されています。観音寺境内にある首曲地蔵は平将門が調伏を祈願した成田不動尊を嫌い、成田に顔を背けた姿といわれています。

この日秀地区は平将門伝説が残る地域で日秀観音から南へ進むと平将門を祀る「将門神社」が鎮座している。神社そばには将門の井戸もあり、さらに将門が幼少の頃、この地域で過ごしたという伝承も残っている。

 

このあたりから下り坂となり、しばらくすると葺不合神社へ向かって登りとなる。

坂を上った先、左手に葺不合神社の鳥居が見えてくる。鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を御祭神とする神社です。鵜葺草葺不合尊を御祭神とする神社は宮崎や九州の海沿いで見られることがありますが、東日本では非常に珍しい馴染みの薄いお名前です。しかし、初代天皇とされる神武天皇の父親なのです。
鳥居、本殿、拝殿は平成24年3月に我孫子市の有形文化財に指定されています。

これより東が旧布佐町となります。現在、この辺りは新木という地名であり、この場所から南へJR成田線を越えたあたりは新興住宅街となっている。
布佐町は 町村制施行により周辺の村が合併し1889年に誕生。1955年、我孫子町、湖北村と合併するまで存在した。ということは、この碑の西は旧湖北村なのだろう。

新木~布佐河岸跡

旧布佐町に入りしばらく歩くと、左手に気象台記念公園が見えてくる。気象台記念公園は、かつてここにあった旧中央気象台布佐出張所跡地を我孫子市が整備し2001年に開園した公園です。

枝垂れ桜がきれいです。今日はお日柄もよく春らしい気候です。

布佐一里塚跡です。東我孫子や湖北の一里塚とは異なり、「塚」は残っていません。元々「塚」は成田街道沿い北側にりましたが国道工事で破壊され、今はこの碑が残るのみです。

引き続き国道356号線を進むと、竹内神社の看板が現れます、ここを右折すると竹内神社へ行くのですが、小学校の敷地の横を抜けるため、このご時世、なかなかこの道を通て神社へ行くのは難しいかも。。。地元の方へ伺っても、やはり大回りしたほうがよいとのこと。
竹内神社の境内には柳田国男ほかによる「日露戦争戦勝英文記念碑」。市内屈指の盛大さを誇る祭礼は9月中旬の三日間、神輿と五基の山車(だし)が練り歩く。

しばらく歩くと右手に布佐愛宕八坂神社が見えてきます。布佐愛宕八坂神社は、大宝3年(703)の創建と伝えられ、東方にあった牛頭天王社(八坂神社)を合祀したといいます。

さらに国道356号線を進むと布佐の旧市街へ入っていきます。
「なま(鮮魚)街道」の出発点で、後に水運の発達と共に船着場も出来て栄えた布佐は、江戸時代から利根川の水運で栄えた河岸の町、商業都市であり、まち並みも利根川に沿う成田街道(国道356号線)沿いに早くから形成され、柳田國男や岡田武松など文化人との関わりや古くからの祭礼が残るとともに、茨城県利根町や印西市との交流も盛んに行われてきた歴史ある地区です。
また、地区南側には、古くから手賀沼干拓の歴史を刻んできた集落が形成されています。

ここが「なま(鮮魚)街道」。突き当りに「馬頭観音堂」があります。

馬頭観音堂。本尊は馬頭観音。相馬霊場58番札所。布佐河岸に到着した鮮魚を運ぶため馬は1日150頭も要したといわれています。この観音堂は駄送馬慰霊のため問屋・馬主が建立。お堂裏沿いから「江戸みち」と呼ばれる鮮魚(なま)街道が延びる。

このあたりに、かつて布佐河岸があったといわれるが、その痕跡は全くありません。

布佐河岸跡~木下河岸跡~木下

布佐河岸跡から国道356号線に戻ると「ふさ復興会館」なる建物が見えてきます。東日本大震災の液状化で大きな被害を受けた、市内布佐地区都交差点そばに、多目的施設「ふさ復興会館」が2016年に完成しました。この辺りは、明治3年(1870年)に起きた利根川氾濫によりできた「切れ所沼」の跡地であり、東日本大震災時に液状化により甚大な被害を受けた地域です。

国道356号を進み印西市へ突入。木下まではもう少し。

成田道はここを左に進みます。

光明真言一億満遍供養塔。

利根川へ向かう手賀川。川沿いには桜の木が植えられている。

印西市中央公民館のたもとに「川めぐり乗船場」がある。六軒川・弁天川・手賀川を小一時間かけてゆっくり巡ります。

木下河岸跡あたりに到着。布佐河岸同様、当時の面影はありませんが、案内板はしっかりありますので、これで木下河岸の歴史を知ることができます。
「木下河岸」は、江戸幕府による利根川の改修工事「利根川の東遷」や水運網の整備、木下街道を含む陸上交通の整備が進み、江戸と下利根川(鹿島・銚子方面)を結ぶ交通の要所として、多くの旅人や物資が行きかい繁栄しました。特に利根川を下って香取・鹿島・息栖の三社へ参詣し、銚子の磯巡りを楽しむといった木下茶舟が江戸町民の人気を集めたようです。最盛期には年間4500艘もの出船が見られ、
50軒余りの旅籠や飲食店がありました。現在では江戸時代から続く老舗旅館 銚子屋の存在が当時の面影を残すのみとなっている。

木下河岸は「木下街道」の起点ともなっており、ここを左に向かうのが木下街道である。

木下駅に向かうため木下街道をしばらく進むと「印西郵便局発祥之地」なる石碑が立っていた。

クチコミ 星3.9の蕎麦屋 柏屋。昭和2年の建てられた建物は風情があり、これだけでも行く価値はあると思います。ここでお昼かと思いましたが、残念ながら月曜日は定休日のようです。

木下駅前の川村商店。創業94年目の老舗のお煎餅屋さんです。地元印西市のコシヒカリを焼き上げた醤油の薫りも香ばしいパリパリのお煎餅が大人気です。

本日のゴール木下駅に到着。お疲れさまでした。

街道歩きログ

2023年3月20日(月)
ルート:湖北~布佐~木下
走行距離:11.7km
所要時間:2時間59分
我孫子から18km、車でよく走るということもあり、思った以上に短く感じた。これがお初ルートだともっと長く感じるのだろう。

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